掃除

年が明けてから花の水やりと洗濯機を二度回しただけで、掃除をしていない

至る所にほこりがみえる

今日から春休みだから掃除をする時間なんていくらでも確保できるけれど、あの課題でばたばたしたかんじが続いたら汚いことにも慣れて掃除をしていない、という認識すら薄くなりそうだ。

実際、多忙な友人の家は信じられないほどに汚かったし、それを汚いと思っていない振る舞いにかなりびっくりさせられた。

生活感があることとほこりや髪の毛が目につくことや水回りが取り返しがつかないほどの状態になっていることとは話が別だとおもう。

 

最近、情緒が安定していてただ楽しい日々を過ごせている。

悩みも人に話せるくらい軽やかなもので、今までなにをあれほどまでに思いつめいていたのか不思議に感じるほどだった。

けれども、この数年で撮った写真を見返していたら、自分の物事の捉え方やそのときの感情を淡くはっきりと思い出した。(なにかを思い出したってすぐ書いていてしまう。物をすぐ忘れるのはわかるんだけれど、こういう状態とか人との関わり方を覚えていられないのはよくわかんないな。まあいいや。)

自分の世界から排除しようとしたものが、反対にあっさりと自分を受け入れ、慰め、励ましてくれて、わたしは結局それに救われたし今となっては求めてしまっている。

わかりあおうと必死になった時間とともに、ふかい情が生まれていたのかもしれない。

その排除したい気持ちが生まれたのと同じくらいの大きさで、好きな人のことをとにかく肯定して大事にしてだれよりも幸せになるようお願いした。

そのひとたちの良くないところを許すことに従事して、自分の倫理観に反していても、そのままで大丈夫、いいよ、って心の中で何度も唱えた。

でも、本当にそれが正しかったのかな。

そんな風に想うひとがいる一方で、嫌な思いをさせたりさせられたり、嫌ったり嫌われたりしたひともいて、それがほんとうにほんとうに記憶から抹消したいくらいの記憶だと思っていた。

言い合ったり喧嘩したり、そうすることで見えてくることもいっぱいあったのに、それを嫌なものとして無視して突き放すのは、綺麗事をならべているのと一緒だった。

自分にとってよくないことをいいよっていうたび、結局大事なひとのことも平気で欺いて、罪悪感をかんじないほどに心を麻痺させたいたのかもしれない。

今日はそういうことに気づけたいい日です。

おやすみなさい

 

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1月2日の青