ふりょう
ショーウィンドウにうつるシャツの出具合を確認すること。コンビニや雑貨屋さんなどに用事があるふりをして涼みに入ること。それらを数回繰り返すうちに商店街を抜けてすぐのマンションの一室に着いた。
古めかしいつくりのそこは、蔦の葉に覆われていて、けれども清潔感や生活感のある、時間の流れがきちんと見える建物だった。
訪れた部屋は、玄関や間取りからしておそらく人が住む為ではなく、ギャラリースペースとして設けられたものだった。
しらない顔に出迎えられ、ちいさな紙コップにはいったお茶を渡されたあと、「ビールはのめますか。」ときかれたが、わたしはもちろん断った。
こういうギャラリーでさけを飲んでいるひとは好きじゃない。
お酒もコミュニケーションも得意じゃないわたしからしたら、交通費をかけて、時間をかけて、緊張しながら、あなたがたの作品を観に来たのに、入って早々さけをすすめてくるなんて、ずいぶん侵害だった。
ひとと酔った状態で喋りたいのなら居酒屋でやってくれ、自分の作品の価値を下げるなよ。
そして声の音量が大きいし散らかすな。
展示と名乗るな。
とまでののしったところで、それを見極められなかった自分も自分だとだまって写真を観る。
目線ほどの高さにある開けることのできない小さな窓から眺める夕暮れは、空がすこししか見えない代わりに、隣の家がよく見えた。このことは見えないものにずっと抱いていた幻想を緩やかに否定をして、本来の正体を自分の目の前にそっと添えてくれたような現実味があった。
それでも窓辺に添えられた三枚の写真は、自分の普段目にするものや想像するものの範疇を超えていて、やはり憧れとは簡単に捨て切れるものではないと実感する。
自分へ直接矢印が向かないのを良いことに、片思いのように心が通じると勝手に信じ込んでいた。
こういうのをひとりよがりというんだね、傷つかなくて済むように。
顔の見えない相手になにかを求めていたのは、人との関係を築くことに臆病になっていただけなのに、ずっと分からないでいた。
わたしは分からないふりをしていられるほど器用ではないから
分からないのをいいことに、向き合おうとしてはこんなことは自分にはできないと思い直し、ひとの気持ちを踏んづけながら、綺麗事をならべながら、誰のいうことも耳にいれない癖がいつのまにかはがれることがなくなり、始められたものなどなにもなかった。
所詮環境から繋がった関係ではないのだから、逃げる事は容易だったのに、SNSの存在を時折ひどく憎く思ったりもした。
とはいえ、無機質なやりとりは煙のようにするすると昇華していき、うっすらと香りだけを残していった。
そんなものは実態を掴むことができる目をみつめた対話の、香水ともとれる華やかな香りにすぐに打ち消されることを、事あるごとに受け入れざるを得なかった。
きれいぶって繊細ぶって、そこまで自分を清いものだと信じ込める才能は、ひとの目の奥を目を逸らさずにみつることができた瞬間、失われる。
そうやってなにかをずっと探して過ごしたここ数年のなかで、知らぬ間に積み重なっていた良いこともある。
自分のうちの、だれにも話したことのない、言葉にしたこともない自然にうまれる感情をこれまで嫌悪してきたけれど、人間味あってそれでもいいんだといつのまにか思えるようになっていた。
それをわざわざみっともなく隠したり、無かったことにしたりするのは、それこそ自分の首を締めるだけだったし、自分をゆるしていくことがこんなにもきもちがいい。
不良のほうが何倍も潔よくてカッコよくて、自由だった。
予感が冴えるように、すきなひとと笑っていきていけるように、違うことじゃないことを感覚的に判断できるように。そういう努力は怠らないようにしたい。