そのまま
8月とともに夏休みも終わって、生活感の強い生活からやっと抜け出せる。
ひとりのひとにのめり込んで正気を失ったり、2年ぶりに酒を一気飲みして吐いたり、バイトの面接に遅刻して落ちたり、漸く受かったバイトの初出勤も寝坊して休んだり、目覚ましをかけずに眠ったり、バイクの音で朝を知ったり、明るくなる空をずっと眺めたりした。
それからコーヒー屋でのバイト
バイトに行く感覚がなく、これまでに感じてきたストレスがないことが救いだった。
躁状態で人に関わったあとは、罪悪感と寝不足と倦怠感だけが残り、それでもあとになって思えば、あそんだなあという変な優越感に浸る阿呆らしさ。
ずっと自分のことしか愛せないで、やさしいとかやさしくないとかすきとかすきじゃないとか、どれもこれも違う気がするし、違くはないものだけははっきしている気もする。
繊細でいることは疲れる。ほんとうに、疲れる。
疲れるからものを知ろうとする。
ものを知ろうとすればするほど、無知を知る。
その繰り返し。
何かを学ぼうとしている時よりも、ケータイを見ている時間のほうが長い現実。
逃げたままでは何も手に入らないことをわかっているし、一向に上達しない写真がものをいってる。
中身うんぬんではなく、役割を果たして責任を負えなければ生きている意味がない。
そう、なにもかも意味がない。
意味なんて最初からない。
けれども支えとしてわたしは意味が欲しい。
欲しがったまま時間が過ぎることが酷く怖い。
3年前から、9月が精神的に追い込まれる月だが、3年前とは違う。
逃げずにただ歩みを進める生き方ができるように、もうなににも逆らわずにそのままでいたい。